〈オッペケペ節〉
今年もなんだかんだで暮れてしまいました。拙作「平成オッペケペ」を唄える日も限られてきました。この曲は大正時代に一世を風靡した川上音二郎の「オッペケペ節」の替え歌です。「オッペケペ節」と言えば演歌の代表曲で、当時の演歌とは今の演歌とは違い、自由民権運動における演説の為の唄だったんです。いわば、プロテストソングです。それがどうして今ある演歌になってしまったんでしょうか?今の演歌はどちらかと言えば、艷の字の艷歌ですよね。まぁ、いいか、所変われば、というか、時代が代われば、唄も代わるということでしょうか!面倒になってきたので、またしても、強引なまとめ方になってしまいました。こんなもんでどうかしら?
では、皆さん、良いお年を!!
<12月31日の巻のtext>
なかなかに次代のオッペケペー節が今から楽しみです。
re-mix versionもこれなかなかにこれよくない?よくなくない?よくなくなくなくなくなくない?
てなことを言ってるうちに平成最後の大晦日も暮れてゆく。
ニッポン丸よ何処へ行く?
~looseむらやま~
〈祭りのあと〉
いやあ、ディランズ・ネットワーク・イベント「饗宴」も終り、すっかり燃え付き症候群になってしまった。「この倦怠はものすごい。手はにぎることも感じないし、足指は歩くにはマヒしている。」(ボブ・ディラン、ミスター・タンブリン・マン、より) っていうか、ただの飲み過ぎ鴨長明。
吉田拓郎の「祭りのあと」。岡本おさみ作詞のこの曲。祭りとは、政(まつりごと)、ズバリ、学生運動を謳ったものである。しかし、優れた歌詞には普遍性があり、複数の状況に共通の感動を引き出せるものである。単なるお祭り騒ぎのような状況下にもこの曲はあてはまる。正しく、「饗宴」という祭りを終えた今の私の心境そのものである。
<11月30日の巻のtext>
ディランズネットワーク、お疲れ様でした。
なかなかに仲間の普段とは違うパフォーマンスを観れておもしろかったです。
今回、ディランのどこにも行けないをカバーしましたが改めて歌詞を追ってみると押韻具合がかっこよくて歌詞の内容もなんか今の自分らに合ってて良いなぁと思いました。
~looseむらやま~
〈二階の窓のギター弾き〉
最近BS で1971年制作の「時間ですよ」が再放送されているので、久々に視ているのだが、内容はほとんど覚えていない。覚えているのは設定とシーンだけだ。特に興味深いのはやはり女湯の脱衣場のシーンだ。今となってはもう垣間見ることのできないような世界であるが、当時はおおらかだった気がする。番台に男性が座っていても平気で脱着しているし、番台の男湯側から覗き見する男性客や、いつもわざと間違えて女湯に入ってくる近所のオジさんも、「キャー!」ぐらいで済んでいる。
もうひとつ興味深いシーンは隣のマリちゃん(天池真理)が二階の窓枠にもたれ、時にはケンちゃん(堺正章)とギター弾いて唄うシーンだ。最近では二階の窓の下は壁しかないという家が増えているが、当時、二階の窓の下が一階の屋根瓦という構造は一般的?典型的だった。窓枠に座り屋根に乗っているという屋根裏的感覚でないとこのシーンの情緒的魅了は半減してしまうと思う。寺内貫太郎一家でも、浅田美代子が二階で唄っていた。そういえば、オードリーヘップバーンの映画にも、こんなようなシーンがあって、「ムーン・リバー」だったかな?唄ってて、勿論、日本の構造住宅とは違っているんだけど、これも良いんだなあ…。なんだ、結局、日本的情緒なんてどっちでもいいんじゃん(笑)。とにもかくにも、二階の窓のギター弾きのシーンは子供時代からのあこがれとして記憶に焼き付いている。
<10月31日の巻のtext>
youtubeで探すともう何でも出てくるね。当時、時間ですよも寺内貫太郎一家もほとんど見てなかったけど今見ると天地真理とかクッソ可愛いなぁ。ヘップバーンとかもう天使かよ。
実家に暮らしていた頃、天気の良い日は2階の窓から屋根に出て屋根の上でひなたぼっこしたりするのが好きでした。なかなかに昨今の住宅事情からすれば屋根の上に出たりなんてできないよな感じだよね。昭和なフィーリンだ。昭和だなんていってるうちに平成も残りわずかになってきたな。ニッポン丸よ、何処へ向かうのか?木戸君には新しい年号のヴァージョンのおっぺけぺを唄ってもらわなきゃだな、それがなんか屋根の上とか2階の窓辺だったりなんかするとかっこいいかもしんないね。
~looseむらやま~
〈悲しきVS楽しき〉
60年代頃だろうか、邦題にやたらと「悲しき~」とつけるのが流行った。「悲しき雨音」カスケーズ、「悲しき願い」アニマルズ、「悲しき街角」デル・シャノン、「悲しき鉄道員」ショッキング・ブルーとか。ボブ・ディランにも「悲しきベイブ」という曲がある。しかも、むりやり感が強い。英語題は「It Ain't Me , Babe 」。直訳すれば、「俺じゃない、ベイブ」てな感じかな。大分、はしょってるよね!
それに対して、楽しきはぜんぜん思い浮かばない。強いて挙げれば、歌のタイトルじゃないけど、「楽しいムーミン一家」「楽しい幼稚園」「楽しい教室」ぐらいしか出てこない。敢えて、挙げさせていただけば、拙作「ダジャレでJOY 」というのもある(笑)。
悲しきのほうが、インパクトあるのかな。楽しいは子供向けって感じだね。歌のタイトルとしては悲しきに軍配かな。
<9月30日の巻のtext>
いまでこそ洋楽のタイトルは原題表記が当たり前になってるけど当時は必ずといってよいほど邦題が付けられていたなぁ。やはりまだまだ英語洋楽に馴染み薄だったみんな達に親近感を持ってもらえるように苦心したレコード会社の努力の賜物だね。
なかなかに意訳な感じながら詩情溢れるタイトルの数々、当時の苦労を偲ばせる。
そんな中、確かに「楽しい」はなかなか探しても出てこないなぁ。
嬉しい、楽しい、よりは悲しいとか寂しいの方が感情移入されやすかったのかな?長調よりは短調な調べがDND的に擦り込まれた日本人的には。
「喜びの世界」とか「I feel fine」とかもあるけどやはり楽しくてハッピーでジョイなフィーリングって口に出したりましてや唄っちゃうと「こいつ何浮かれてんだコノヤロー」的に反感を買っちゃうからなのだろうか?なかなかに歌のタイトルやテーマって考えると深淵な世界ではあるな。
そんな中でもザ・バーズの1stアルバムに収録されてる1曲で「すっきりしたぜ」てのがあるけどこれはタイトルのスッキリに対して「お前があんな事した後じゃもう一緒にはいられない、俺の前から消えてくれたらすっきりするのに」とゆうなんともモヤモヤした恨み節全開の歌。
なるほど人の不幸は蜜の味、あるある!俺にもそんな経験が!と共感を覚える人の方が多いはず。記憶や体験の共有心理ですな。
「楽しげ」なイントロのギターリフと対照的な「悲しき」世界にようこそ!
~looseむらやま~
〈おーい、でてこい〉
残暑、お見舞い申し上げます。って、今年はどうなってるの?というより、これからどうなるの?世界的な異常気象のニュースを見ていると、星新一氏のショートショート「おーい、でてこい」という作品を思い出してしまった。ネタばらしも何なので、内容は伏せておく。異常気象などと騒がれるずっと以前の作品だが、正しく今日の状況を風刺しているように感じた。
ところで、ポピュラー音楽において、シングル曲の長さは、ボブ・ディラン氏が「ライク・ア・ローリングストーン」を出すまでは、約3分ぐらいのショートショートだったとさ。ジャンジャン。
<8月31日の巻のtext>
オリジナルバージョンのオルガンの音が最強だね。
ストーンズのカバーは初めて観た、おもしろいね。
転がる石とはまったく関係ないがシングルレコードは3分の慣例を破った1曲、ビートルズのヘイジュードもお納めください。
~looseムラヤマ~
〈夏のイメージ〉
毎日暑いですね。こう暑いと頭がバカになってエロいイメージしか浮かんで来ない。まあ、年がら年中そうだけど(笑)。小麦色に焼けた素肌。夏目雅子さんはきれいだったなあ。美しい女性はずっと見ていたい。最近ではおじさんキラーの壇蜜さんも良いですねー。世間では災害で苦しんでいる人もいるというのに何と不謹慎な。だけど、俺ってこんなもんです。
<7月31日の巻のtext>
夏目雅子さん、美しかったなぁ。健康美ってゆうのかな、そうゆう感じ。
でも正直そんなに印象に残ってるわけではない。
壇蜜っちゃんはなんかいいね、佇まいが。
youtubeで見かけた壇蜜っちゃんのCM、なかなかにいい感じだと思ったらなんかパチンコの会社?画はめっちゃいい感じなのにね。
~looseむらやま~
〈夏といえば…〉
短い梅雨が終わり、いよいよ夏本番。夏といえば、花火のように一瞬で終わってしまう、短命な恋の唄のイメージがある。「ひと夏の経験」とか「夏はご用心」とか…。
花の中三トリオかよ。なのに森昌子の唄だけ出てこない。
ボブ・ディランのアルバム「ショット・オブ・ラブ」の一曲「イン・ザ・サマータイム」。この唄もやはり、一瞬燃え上がった短命な恋(短い夏)のイメージの曲であるが、「想い出として、墓場まで、そしてその先の永遠まで持っていく。」という、強烈な言葉で締めくくっている。言い切っちゃう感が半端ない。
吉田拓郎の「夏休み」は反戦歌かもしれないという噂を最近知った。畑のトンボはもういない…♪大人になった自分がもう子供には戻れないというふうに聴いていたが、言われてみれば、被爆体験後の唄と言えなくはない。
さて、皆さん、今年はどんな夏の唄を唄いますか?
<6月30日の巻のtext>
百恵ちゃんかわいかったなぁ。当時花の中三トリオの中では僕は圧倒的に百恵ちゃん推しだったが同級生はみんな桜田淳子推しだった。ナンデダ!でも森昌子のファンはいなかった。
ひと夏の経験は子供心になんだかどきどきするようなひりひりするような得体の知れないどこかオトナの世界を垣間見るようなちょっといけない感じがして家族の食卓のTVの歌番組で聴いてても気恥ずかしい思いがして百恵ちゃん推しだと云うのがはばかられるようなそんな感じだったのを覚えてる。
in the summertime、めっちゃかっこいいな。木戸君、こんだこれやろうよ。
詞もいいね!
時は流れて百恵ちゃん推しだった事もとうに忘れてしまった自分はたくさんの歌に出会ってきた。直接「夏」と歌われてなくても自分の中で夏を感じる歌っていうのもある。その歌を聴いていた時の状況だったり歌が流れていた時の情景だったり。
夏に限らずたくさんの「季節の歌」があるけど今回は夏をタイトルに冠したこの曲を。
当時、こんなシェイクなナンバーを演っていたのってコレクターズくらいだろう。
夏のライヴに行くといつもこの曲をやってくれて「あぁ、夏の始まりだぁ」て思ったことを覚えてるので今回の木戸君へのアンサーソングはこちらをご用意。
~looseむらやま~
〈なにもないことが多すぎる〉
先月のこんなんありシリーズに関連して今月はボブ・ディランの「なにもないことが多すぎる(Too Much Of Nothing )」を取り上げたい。この曲はボブ・ディランの最初の公式海賊版アルバム(笑)ベースメントテープスに入っている。
「何もないことが多すぎると、ひとを落ち着かなくする。ひとりは機嫌が良くなり、もうひとりの機嫌は凍るかもしれない……」
バイク事故の後、ディランはそれまでの忙しさとはうって変わって落ち着いた生活を送っていたと思われる。この唄はそんな一面を垣間見させてくれる気がする。同アルバムに入っている「どこにも行けない(You Ain't Going Nowhere )」からも同じ感覚が伝わってくる。「旅、放浪」と相反する「定住、安定」である。
この頃のディランは派手な活動はせず、ウッドストックにこもって、ザ・バンドといわゆるビックピンクでセッション録音などしていた。海賊版として出回ってしまったものを後に公式アルバムとして発売したという。(この頃はまだブートレッグ・シリーズは始まっていなかった。)そして、ここ何年か前にブートレッグ・シリーズとして、別テイク集「ザ・ベースメントテープス・ロウ」というのが出た。いやー、間違っていたら御免なさい。
<5月31日の巻のtext>
個人的にthe byrds 好きなんで「どこにも行けない」をフューチャリングさせてきただきました。旅、放浪からの定住って西部開拓史時代のアメリカ人のスピリッツを感じさせるテーマだなぁと思ってしまった。
さても現代の日本のカウボーイ(サラリーマン)達は旅、放浪(独身時代)を経て牧場を買って(結婚からマイホーム建てて)安住の地を得られているのだろうか。
~looseむらやま~
〈なんにもしたくない〉
こんな唄もありシリーズ。小室等さんの唄に谷川俊太郎さんの作詞で「なんにもしたくない」ってのがある。それまでに聴いたことのないタイプの唄で、当時の私にとって、衝撃的だった。題材は無限にあるし、何でも唄にしていいんだと、この唄は教えてくれた。
この唄にあやかろうと思って「唄いたくない」という唄を作ってみた。しかし、納得できるものではなかった(苦笑)。どうしても唄いたい気持ちが出てしまい、自己矛盾に陥った。難しい題材であることは確かだ。
<4月30日の巻のtext>
なるほどこりゃかっこいいね。
言い切り感がパネェ。この言い切り感、今の政治家さんにも見習ってほしい、ほんとに。
そして木戸君のうたいたくない歌ってのも聴いて観たいなぁ。
~looseむらやま~
〈値上げ〉
4月から値上げするもの(ビール、納豆、牛丼、コーヒーなど)どれも家計に響くものばかり。特に納豆は毎日のように食しているのできつい。だけど、その内その値段に慣れてしまって苦にならなくなるから恐い。
さて、今は亡き、高田渡さんのレパートリーに「値上げ」という唄があった。私もステージで取り上げさせていただいたことがある。こういう、トピカルソングのニーズはどの時代においてもあると思うし、こういう唄をつくる人がもっといてほしいと思う。何?だったら、自分でつくれ!ごもっとも。
<2018年3月31日の巻のtext>
なるほどこりゃいいね。木戸君もどんどんいろいろ切り取って歌ってよ。
ネットに蔓延る幼稚な「論破」を恐れずに。
ある事柄に対して批判や受け入れって理性と感情を両立させるのはなかなかに難しいけど声をあげるのは大事だと思うよ。
世の中の自称情報強者と自負してる人ってなかなかに情報の入り口が偏った感のある人が多いと思うのだがどうだろうか。あくまで個人の感想で恐縮だが。
~looseむらやま~
〈春の風が吹いていたら〉
春よ来い、早く来い、歩き始めたミーちゃんが赤い鼻緒のジョジョ履いて♪のジョジョって何?ゲットバックのジョジョかい?んなこと、どうでもいいんだけど…もうすぐ春ですねえ♪恋をしてみませんか♪
吉田拓郎さんのアルバム「御伽草子」に入っている「春の風が吹いていたら」はお気に入りの一曲。四角佳子さんの歌声が春の雰囲気に包まれているようで爽やかです。別バージョンで南沙織さんが歌っているビデオがあり、こちらもいい味出してるので、是非、聴き比べてほしいなあ。そだねー。
<2018年2月28日の巻のtext>
とゆうわけでよしこちゃん、さおりん両バージョン聴き比べてみてください。
なかなかに両方とも趣あるねー、そだねー。
赤い鼻緒のジョジョってなんか違うんじゃねぇか?まぁいいや、ゲットバックも併せてお楽しみください。
~looseむらやま~
〈雪が降るけど、雪は降る?〉
子供の頃、あんなに好きだった雪が、大人になると、何でこうもうんざりするのだろうか。まあ、私みたいに仕事で車を運転する人は特にそうだと思うけど、天気予報にさえ腹を立ててしまうこともある。そう言えば、三上寛さんの「なかなか」の歌詞で「天気予報は今日もまた青筋立てて冗談を繰り返す、雪なんか降らせやがって、死にたがる奴等の心情をくすぐるだけさ♪」というのがあった。雪には死とか絶望とかのマイナスイメージがある。そんな中、思い浮かぶのは「雪が降る」。アダモさんが日本語で歌う段になって、安井かずみさんが新に訳詞をつけ、その時から、「雪は降る♪」と歌われるようになった。もともと日本語訳はあったが、その訳詞のほうはタイトルだけじゃなくて、歌詞も「雪が降る♪」と歌っている。まあ、どっちでもいいような?微妙にニュワンス違うような?「雪は降る♪」は曲げられない事実を歌っているようであり、「雪が降る♪」は特定の事実を歌っているような感じがする。どっちの歌詞が良いか、聴く人のその時の気分によって左右されるし、経験によって優劣は逆転することもある。一長一短あるし、どっちも違ったいい味出してると言ったほうが無難だろう。いずれにしても、訳詞が違うのを聴きくらべるのは面白い。まあ、アダモさんの場合は圧倒的な歌唱力で、細かいことはどうでもいい気がするけど。
<2018年1月31日の巻のtext>
アダモさんのナンバーはなかなかに色気があるのはなんだか僕的フレンチなフィーリンとゆうかイメージ先入観の産物なのあろうか、それはわからないが最近耳にするポップスでこうゆう色気のある歌が無いような気がする。まぁそんなに数を聴いちゃいないし昔はよかった的な事を言いたいわけでは無いんだけどね。
「が」「は」論争関連ではないが自分的に雪ソングというとかぐや姫の「雪が降る日に」が真っ先に思い浮かぶ。初めて聴いたのはたぶん中学生の頃だったと思うがポリフォニーを使ったユニークな展開がなかなかに斬新で雪国育ちの自分的にはまさに雪の降る日のフィーリンが音像になったのを目の当たりにしたような気がしてフハッとなったのを覚えてる。
因みにこちらの歌はタイトルでは「が」だが歌いだし冒頭の歌詞は「は」を採用。
このライヴヴァージョン、今聴くとめちゃCS&Nしてるな。
~looseむらやま~